ねじ式 15日目(最終回) 「輪廻」

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N浦にあった老婆の家に入ると、いつのまにか主人公「T」はトンネルを彷徨っていた。
そこから聞こえてくるのは「ゲンセンカン」の話…

そもそもこのゲームは、小説家(漫画家?)である「T」が、自分の自伝を描く為に自分がこれまで描いてきた創作世界にダイブする…という始まりだった。
しかしそうした行為自体が夢だった…というのがここまでの話だ。

今のTは、確かに現実世界を歩いていた。なのにいつの間にかまた創作世界にダイブしている。
いや、これはダイブなのか?夢ではないはずだ。Tは現実世界で確かに起きていたのだから。
すると現実に創作世界が存在しているということだろうか?
「ゲゲゲの鬼太郎」でいうブリガドーン現象みたいな…

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トンネルをひたすら進んでいくと、モノクロのお婆さんが語りかけ、そして消えて行く。
やがてトンネルの出口が見えて来た。
トンネルを抜けると…

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そこはゲンセンカン宿だった。
だがそのゲンセンカンには、主人が既に居た。
その主人が「T」を見て驚いている。Tは自分であると。
Tの姿は…

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お婆さんから買った天狗の面を付けたTその人であった。

-完-



完である。
これでこのゲームは終わりだ。

読んでる方はさっぱりわからないだろうが、書いている私もよくわからない。
無理やりこじつけてみる。

まず「ゲンセンカン主人」と言う漫画がある。つげ義春の代表作の一つだ。
ストーリーはこうだ。
ある寂れた街に男がやってきた。その男が駄菓子屋でメンコや天狗の面を買っていると、ゲンセンカンの主人に良く似ていると言われる。
ゲンセンカンと言うのはこの街の安宿で、今は主人と耳の聞こえない女の二人で経営しているが、かつては女が一人で経営していたという。
その昔この宿に男が泊まった。その男もメンコや天狗の面等を買っていた。
やがてその男はこの安宿の女と懇ろになり、この宿の主人となった。
このゲンセンカンに冒頭の男がやってきた。その男は、かつての男と同様天狗の面を付けて…

この漫画の解釈は色々あるが、全体的に前世の存在をにおわせていた。
とすればゲンセンカンの主人は前世あるいは後世の「自分」に出会ったと言うことだろう。

この解釈をこのゲームに当てはめると、夢の世界に生きている「T」に、現実の世界の「T」が会いに行った。
その後そのTは夢の世界の住人になり、やがてTはまたいつかTに出会うのだろう。

これの意味するものは何か?
現実世界のTは再び夢の世界を望んだ。あるいは胡蝶の夢の如く、そもそも夢の世界こそが本物なのか。
あるいは創作とは自分削りであり、結局自分を掘っては埋めてを繰り返すロンドのようなものだということか。
あるいは意味などないと言う意味か。
そもそもつげ作品に意味を求める行為こそが最も愚かな行為である。ならばこのゲームに関してもさもありなん…

このゲームを活字で表現するにはこれが限界だ。
活字で表現できない高みに達した所に、つげ作品と、そしてそれをモチーフにしたこのゲームにしかない凄味があるからだ。

このゲームの価値を問う場合、ゲーム性やユーザビリティ等に口に出すのは果てしなく愚かだ。
つげファンとしては、こうしたゲームが存在すること自体に感涙にむせぶ。
この世界のどこに、メメクラゲに刺された少年と一緒に冒険できるゲームが他にあると言うのか。
それだけでもう、充分なのである。
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